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陸奥国 会津郡 熨斗戸組 戸中(とちゅう)村 大日本地誌大系第31巻 115コマ目 府城の西南に当り行程18里19町。 家数軒16、東西1町30間・南北40間。 山間に住し北は立岩川あり。 東14町熨斗戸村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り29町。 西8町押戸村の界に至る。その村まで16町。 南1里湯岐村の山界に至る。その村まで1里1町。 北15町福渡村の山界に至る。その村は戌亥(北西)に当り16町。 山川 立岩川 村北1町にあり。 熨斗戸村の境内より来り、西に流るること20町、福渡村の界に入る。 升沢川(ますさはかわ) 村東5町にあり。 境内の山中より源を発し、北に流るること3里、立岩川に注ぐ。 広7間計。 「いはな」・鰥を産す。 関梁 橋 村東5町にあり。 御嶽堂橋(みたけどうはし)と云う。 丸木橋にて升沢川に架す。 長8間、隣村の通路なり。 神社 御嶽神社 祭神 大山祇命 勧請 不明 村東6町にあり。 鳥居あり。井桁村阿久津和泉が司なり。 Google Map御嶽神社(南会津町)
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陸奥国 会津郡 松川組 南倉沢(なくらさは)村 大日本地誌大系第31巻 90コマ目 府城の南に当り行程11里。 家数18軒、東西2町30間・南北50間。 山中に住し四方に田圃(たんぼ)あり。 東2里計白川領岩瀬郡鶴生(つるふ)村の山に界ふ。 西8町杉沢村の界に至る。その村まで14町。 南3里計下野国那須郡三斗小屋村の山に界ふ。 北1里10町計水門村の山に界ふ。 また 戌亥(北西)の方12町木令村の界に至る。その村まで22町。 山川 小嶽山(こたけやま) 村東1里30間にあり。 頂まで4町。 会津・岩瀬二郡の界なり。 東の方鶴生村に属し峯を限りとす。 この山中に鶴生村甲子(かし)山の温泉に行く道あり。 赤ひと山 村より辰(東南東)の方3里5町にあり。 頂まで18町計。 東は岩瀬郡黒川村に界ひ峯を限りとす。 すたて山(須立山) 村より巳(南南東)の方3里にあり。 登ること13町計。 鎌房山(かまふさやま) 村北1里10町にあり 。頂まで8町。 北の方水門村の山につづく。 高倉山(たかくらやま) 村より丑寅(北東)の方18町にあり。 頂まで12町。 孤立して諸山に続かず。 雑木多し。 観音山(くわんおんやま) 村より巳(南南東)の方20町にあり。 登ること12町。 寛文の頃まで(1661年~1673年)この山の半腹に観音堂あり。因って名く。 観音川 村南13町にあり。 源を小嶽山より発し、観音山の麓を過ぎ、屈折して西に流るること2里余、杉沢村の界に入る。 広7間。 鏡沼(かがみがぬま)(鏡ヶ沼) 村より辰巳(南東)の方3里余山奥にあり。 東西50間・南北2町20間。 水面が鏡を磨くがごとし、故に名けり。 正保中(1645年~1648年)この村の農民大蔵というもの猟のためこの沼の辺に至り、鹿笛を吹きて鹿を誘いしに神女忽然(こつぜん)として水面に現はる。大蔵「何さま変化ならん」と腰に挿みし鉄砲を打ちしに、神女化して大蛇の形をあらはし水底に沈むとひとしく空がかき曇り風雨暴かに起れり。大蔵前後に度を失い(*1)足に任せ荊棘(いばら)を踏みて岩瀬郡甲子温泉に至りこの事を語りしに、その辺にてはかかる(・・・)変異を覚えずとて人々奇異の思いをなし怖れしという。これより7日の間近辺風雨烈くして諸作(しょさく)を荒らし秋の実りも悪かりしとぞ。 神社 山神社 祭神 山神? 鎮座 不明 村南にあり。 鳥居あり。木令村室井備中が司なり。 寺院 学円寺 村の辰巳(南東)の方にあり。 任運山と號す。大和町金剛寺の末寺真言宗なり。 元和中(1615年~1624年)想識という僧草創す。 本尊観音客殿に安ず。長1尺7寸、春日作という。 観音堂 村南1里、観音山の麓にあり。 観音立像、長さ1尺5分。空海作と云う。造立の時代を詳にせず。 もとは観音山の半原、巌窟の中にあり。 参詣の便あしければ寛文中(1661年~1673年)学円寺の住尊栄、ここに移せりと云う。 Google Map甲子山(小嶽山?) 旭岳(赤崩山)(赤ひと山?) 須立山 高倉山 観音山 鏡ヶ沼 大山祇神社 学円寺 観音沼森林公園嶽観音堂 雷神社 子安観音堂 余談:小嶽山の名称について。 現在の地図を見る限り、甲子峠から甲子温泉に行く途中にあるのは甲子山のようです。 小嶽山どこいった・・・。 ひょっとして、会津と那須側で山の呼び名が違う?
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陸奥国 会津郡 滝沢組 下柳原村 大日本地誌大系第31巻 17コマ目 府城の北に当り行程32町。 家数13軒、東西48間・南北2町。 四方田圃(たんぼ)なり。 東2町22間・南46間、共に北柳原の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り2町20間余。 西1町34間高久組下荒久田村の界に至る。その村まで8町50間。 北4町河沼郡代田組倉道の界に至る。その村は丑(北北東)に当り13町余。 また、未申(南西)の方42間高久組上荒久田村の界に至る。その村まで7町50間余。 戌亥(北西)の方3町26間高久組中前田村の界に至る。その村まで4町40間余。 丑寅(北東)の方3町10間下居合村の界に至る。その村まで7町10間余。 山川 渠川(せせなきかわ) 村東2町40間にあり。 北柳原村の境内より来り、北に流れ西に折れ凡境内を経ること5町計中前田村の界に入る。 水利 黒川堰 北柳原村の方より来り、田地の養水となり下流中前田村の方に注ぐ。 渠川について Google Map福島県会津若松市一箕町大字鶴賀下柳原
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陸奥国 会津郡 田島組 大日本地誌大系第31巻 100コマ目 この地府城の南に当り本郡の中程にあり。 東は松川組に隣り、西は高野組に交わり、南は河島組に続き、北は楢原組に接す。 東西2里計(東は松川組落合村の界より、西は高野組下塩沢村の界に至る)。 南北1里30町(南は河島組中荒井村の界より、北は楢原組岩本・倉・小山・上添4ヶ村の界に至る)。 諸村皆山中に住し水田少なく麻・大小豆・稗(ひえ)・黍(きび)を樹う。 ただ田島村のみ地面やや開け田畝(でんぽ)乏しからず。 下野街道にて習俗も自ら樸実(ぼくじつ)の風薄く山中の諸村とやや別なり。 水無村・田邊村は薪樵(しんしょう)の利多く朴(ほほのき)材・桂(かつら)板の類、仲附馬(なかつけうま)にて府下に出し諸品に交易す。 本組及び高野・河島・熨斗戸の四組を俗に上郷と称し。 皆衆山の中にありて耕作の節も平地よりは14、5日遅し。 農隙(のうげき)に他邦へ出て屋上を葺き木挽(きびき)をなし、あるいは麻・煙草・塗物の類を買売し。関東及び江戸の方に徒来する者少なからず。 また、深山の村々にて熊をとるに、春夏の間木実を食せんとて梢に上れるを伺い鑓鉄砲にてこれをとる。 冬より春に至っては大木のうろ又は岩穴に籠れるを、柴を伐り穴に入れば熊その柴を採って穴の中に籍き、漸く穴浅くなり己が身の露るるを覚えず、猟人その機を計り鉄砲を放ち或は月輪を聲をかけ鑓にて突殺す。熊の胸に月輪とて白き所あり、急所にてこれをつけば立つところに死すという。総て山ふかき村々にて熊をとる皆これに同じ。 この組の諸村関本郡に属するもの一ヶ村あり(永田村)。 余は皆田島郷に隷す。 田島村端村:宮本(みやのもと)、折橋(おりはし)、古寺、櫃(ひつが)島 新町村 丹藤村 長野村小名:下河原 端村:大澤 田邊村 栗生沢村 水無村小名:須巻 端村:多摸沢(たもざわ)、渡実(わたさね)(廃)、隔沢(へきざわ)(廃) 永田村小名:富田 端村:今生(いまのふ)
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陸奥国 会津郡 松川組 野際新田(のきはしんてん)村 大日本地誌大系第31巻 91コマ目 この村は元禄8年(1695年)宇都宮街道発けしきとき新たに設けし駅所にて、田地なくただ人馬をつき立てることを業(なりわい)とす。その後年を経て民家やや多くなり、南倉沢・音金の両村入逢の地を新墾し今は一村となれり。 府城の南に当り、行程12里。 家数10軒、東西1町20間・南北45間、山の半腹に住す。 松川村駅より2里ここに継ぎ、ここより3里下野国那須郡三斗小屋駅に継ぐ。 四方みな南倉沢・音金両村の山林・田圃(たんぼ)相雜(まじ)はり境界分ちがたし。 南倉沢村は北に当り1里8町。 音金村は西に当り1里5町。 関梁 野際口 村より1町辰巳(南東)の方にあり。 ここより大峠を踰(こえ)て那須郡に通ず。 木戸門を設く。番戍(ばんじゅ)を置き往来を察せしむ。 Google Map野際新田地区 神社? 大峠野際新田登山口駐車場 三斗小屋宿跡 駒返坂について 野際新田より大峠方面に街道を進んでいくと、途中に奥州駒返坂についての説明板があります。 奥州駒返坂について 会津藩は元禄8年(1695)松川通り(会津中街道)を開削(かいさく)した。天和3年(1693)9月1日、日光大地震により五十里湖が出現し、南山通り(会津西街道)での参勤や廻米(かいまい)が困難になったためである。 その道筋は、若松・面川・香塩・小塩・桑原・小出・弥五島・松川・野際・三斗小屋・板室・百村・高林・横林・上石神・山田・矢板・川崎・乙畑・氏家に至る31町52間の街道である。 旧道は現道よりも東側に位置している。野際宿からつづら折りの坂を登り切り、下る坂を「奥州駒返坂」と呼んでいた。ここには元禄8年銘「奥州駒返坂」の碑があり往時を偲ぶことができる。 険阻な大峠を越えるため、時の藩主松平正容公もこの場所で駒を返し徒歩で峠を越えたと伝えられる。 下郷町 道を先に進むと石碑があるらしいのですが、確認できませんでした。
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陸奥国 会津郡 黒谷組 長濱(なかはま)村 大日本地誌大系第31巻 139コマ目 府城の西南に当り行程18里5町。 東西2区に分かれその間3町を隔つ。 東の1区。家数12軒、東西2町・南北1町。 西の1区。家数20軒、東西3町・南北50間。 共に北は檜枝岐川に近く3方は山廻れり。 東28町和泉田組大倉村の界に至る。その村まで1里5町。 西8町黒谷村の界に至る。その村まで12町。 南7町黒谷村の山に界ふ。 北6町荒島村に界ひ檜枝岐村を限りとす。その村まで8町。 小名 深沢(ふかさは) 本村の東26町にあり。 家数8軒、東西2町・南北30間。 北は檜枝岐川近く3方に山廻れり。 (延寶の頃(1673年~1681年)までは波安新田村とて格村なり。今この村に属す旨趣(ししゅ)詳ならず) 山川 檜枝岐川 村西6町にあり。 大倉村の境内より来り、米沢(よねさわ)・上沢(かみのさわ)・下沢(しものさわ)・杉沢(すぎさわ)・長濱沢(ながはまさわ)・足沢(あしのさわ)・宮沢(みやのさわ)等の流を受け、西に流るること30町黒谷村の界に入る。 神社 鬼渡神社 祭神 鬼渡神? 相殿 権現 鎮座 不明 村南1町30間にあり。 鳥居拝殿あり。黒谷村木津式部が司なり。 古蹟 古戦場 村西6町にあり。 唱崎(となふがさき)という。 相伝う。高倉宮渡部長七唱等を従えて此処に落たまひしに、河沼郡柳津村に住せし石河(川?)冠者有光と云う者が襲来りしが、唱はこの村の清水淡路某と云う者のたのみ宮をば楢戸村に落し奉り、そのまま淡路と共に黒谷川を後に当て防戦ひしかば、石川ついに此処にて討たれ、残る軍兵も多く討死せしとぞ。因って屍を1処に埋めし処なりとて、長10間・幅1間・高3尺の塚あり。今猶(なお)往々の兵器の朽ち折れたるを得ることありと云う。 河沼郡牛沢組柳津村 - 石川冠者有について記載あり 会津郡黒谷組楢戸村 Google Map長浜地区 深沢地区 鬼渡神社 古戦場 - 唱崎公園内金毘羅宮 唱ヶ崎古戦場跡宿泊施設マップ(PDF)(只見町観光まちづくり協会)※画像一部引用 長浜付近の古地図 ※地理院地図(大正2年測図/昭和8年要部修正) 深沢の南に神社のマークあり
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陸奥国 会津郡 松川組 大窪(おほくほ)村 大日本地誌大系第31巻 94コマ目 府城の南に当り、行程9里18町。 家数7軒、東西1町40間・南北23間。 山間に住す。 東11町計水門村の山に界ふ。 西5町40間・南11町、共に小松川村の界に至る。その村は西に当り11町50間余。 北3町56間沢入村の界に至る。その村まで8町10間余。 神社 御霊神社 祭神 御霊神? 鎮座 不明 村西50間にあり。 鳥居あり。村民の持なり。 Google Map神社
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陸奥国 会津郡 松川組 寺(てら)村 大日本地誌大系第31巻 94コマ目 府城の南に当り、行程9里2町。 家数6軒、東西30間・南北50間。 南は山に接し、三方田圃(たんぼ)なり。 東2町・西20間・南9町・北20間、共に中妻・本九九布両村界ふ。中妻村は北に当り30間。本九九布村は戌亥(北西)に当り4町50間余。 また丑寅(北東)の方6町余沢入村の山界に至る。その村まで8町。 寺院 観音堂 村南1町10間余にあり。 昔ここに中澤山正光寺という真言の道場あり。寛永の頃(1624年~1645年)堂舎残らず廃頽(はいたい)し、ただこの堂のみ残れり。 観音、木像秘佛なり。 脇立、毘沙門・不動。不動の背後に『正光寺大檀那良知別當并其子義乗明尊同檀那源七同檀那藤平治為寄進奉納之嘉慶二年戊辰九月同日敬白』と書付あり(同日の字疑はし。もしくは本尊に本日ありて脇立なれば斯く書せしにや)。 村民の持なり。 ※嘉慶2年=1388年 Google Map観音前丙(寺村?) 中ノ沢観音堂
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陸奥国 会津郡 高久組 中前田村 大日本地誌大系第31巻 38コマ目 府城の北に当り行程30町。 家数15軒、東西1町21間・南北1町6間。 北は渠川に傍(そ)ひ三方田圃(たんぼ)なり。 東3町45間河沼郡代田組倉道村の界に至る。その村まで6町50間余。 西5町沼木村の界に至る。その村まで6町。 南1町57間下荒久田村の界に至る。その村は未(南南西)に当り7町30間余。 北26間代田組槻橋村に界ひ渠川と限りとす。その村まで2町10間。 また 戌亥(北西)の方12町木流村の界に至る。その村まで8町20間。 山川 渠川(せせなきかわ) 村北20間余にあり。 倉道村及び滝沢組下柳原村の界より来り、戌亥の方に流るること19町計、木流村の界に入る。 広7間。 渠川について Google Map菅原神社 永和の暮らしと歴史(会津若松市)の中に中前田と渠川について記述がありましたので引用します。 中前田のせせなぎ川を挟んだ北に、中島村というのが昔あり、その村の前にある田を意味します。上沼木の菊地一族の分家、菊地右近頼景(きくちうこんよりかげ)が住んでいました。館跡が、集落のやや東側に土塁の一部が残っています。菊地氏が去り、1600年に神指地区の村が強制撤去されるとこの集落に多くの人が移転してきました。集落の南には、米沢街道上道沿いにあった七つ壇と呼ばれた塚がありました。発掘調査で、廻国聖が納めた銅製筒が出土しています。会津戦争で、集落が焼かれています。
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陸奥国 会津郡 原組 篠山(ささやま)村 大日本地誌大系第31巻 23コマ目 府城の東に当り行程2里18町余、家数15軒。 東西1町・南北3町5間。 東は湖に臨み三面に山繞(めぐ)れり 西5町32間・南3町、共に赤井村の山界に至る。その村は西に当り20町20間余。 北23町50間耶麻郡川西組戸口村に界ふ。 また 戌(西北西)の方23町10間河沼郡代田組強清水新田村の界に至る。その村まで32町30間。 村北より安積郡福良組浜坪村と二本松領舟津・浜路両村への舟路あり。江戸に米を漕運(そううん)す。故(ゆえ)に駅所になぞらえて、条目を定め制札を設けみだりに貿易運漕する事を禁ず。 この邊の山に篠多き故(ゆえ)村名とせり。 山川 材木岩 村北湖に臨める岩上なり。 高120間余。8、9寸角より2尺角計の石柱相累れり。 各長3間計、橋とするに尤も好し。 また中田村の東にあり。 両所ともに昔磐椅明神の作れる処なりとぞ。 相伝う、明神一夜の中に湖上に石橋を架せんとせしが、いまだ成らざるに、夜明けければその儘(まま)棄置れしという。 水利 堤 村西4町にあり。 周220間余。 享和3年(1803年)に築けり。 神社 山神社 祭神 山神? 相殿 稲荷神 雷神 天神 鎮座 不明 村西2町にあり。 鳥居幣殿あり。原町丸山主計これを司る。 古蹟 眞光寺跡 村西にあり。 浄土宗の寺なりしという。 往時住僧の墓にや丸き石塔数基あり。中に應安2年(1369年)・慶長10年(1605年)の彫付あるものあれども、その世の物とは見えず。 應安元年(1368年)府下五之町高巖寺の僧岌譽ここに隠居し閑霊菴と号ししが、寛文中(1661年~1673年)廃せり。 河沼郡代田組稲荷原新田村 - 米倉 船便会津郡原組篠山村 耶麻郡川西組戸口村 耶麻郡川東組関脇村 安積郡福良組赤津村(端村秋山) 安積郡福良組浜坪村 二本松領舟津村/浜路村 Google Map山ノ神神社 子安観音 須佐乃男神社 鳥居(村西)